「錆びた刀」という作品を
過去二度描いている。
一度目は、ぶんか社で麻雀漫画の増刊号が出たときに、
二度目は、廃刊直前の近代麻雀オリジナルに描いた。
二度とも最後まで描き切らず、
終わりになっているので
よっぽど、ゲンの悪いタイトルなのかもしれない。
どちらもKindleで読めるようになっている。
ただし、一度目の「錆びた刀」は
「根こそぎフランケン」3巻の巻末に収録されている。
実はこの一度目の「錆びた刀」、
前後編の作品で、収録されているのは後編だけである。
何故、そうなったかというと
前編がどっかに行ってしまったのだ。
まったく原稿というものは
よく行方不明になる。
前編のお話のあらすじを書くと、
樫原という雀荘で裏メンをする男が
不調に陥るところから始まる。
話の冒頭に白,發,中と、
三元牌のどれかを切らなければならない手牌が出てくる。
そのうち一つを選ぶと、それがポンされ
そのおかげで要牌が喰い流れ、
敵にアガられてしまう。
「もし、別の牌を選べば自分のアガりだった。」
と、樫原は思い自分の不調を意識する。
そういう状態から
マネージャーの鎌田のアドバイスを得て、
復活するという前編である。
見ていただければわかると思うが、
後編の樫原はアガれる手順の三元牌を打っている。
「三元牌が1枚ずつ三枚あったとき、
何から切るか?」
私は色んな人にこの意地悪な質問をしていた時期がある。
三元牌に優劣にないので戦術的には答えようがない。
私が知りたかったのは、
その人の偶然に対する意識なのだ。
まずは、ランダムに切るという答え方をする人がいる。
「一番右にある牌を切る。」とか、
「適当に切る。」という答えだ。
次に、切る順番を決めているという人もいる。
「白發中という順番で切る。」とか、
「發が好きだから最後まで残す。」という答えだ。
そしてこんな答えもある。
「白發中と切る。
ただし、ツイてないと思ったら別の切り方をする。」
下の答えになればなるほど
偶然に対する意識が強いということになる。
偶然という人間にはどうすることもできないものを
何とかして有利に働かせようという気持ちだ。
「どう打ってもトータルすれば勝ち負けは同じだ。」
その通りである。
ただ、私が言いたいのは
常に卓に向かい、
勝ちたいという気持ちの強い人には
こういう世界が見えてくるということなのだ。
白を先に打てばアガれていた。
發を先に打ったから放銃した。
これが、全財産を賭けた勝負だったら…。
これが、タイトル戦の決勝だったら…。
「平均すればどっちだって同じ。」
などということは言っていられない。
麻雀プロという人たちは
そういうところと向き合っている。
少なくとも私の知っている麻雀プロは
その世界が見えている。
ただし、
「どうすることも出来ない世界は
見えているけど見てはならない。
そこに関わっても損をするだけだ。」
となるべくその世界を見ないようにしている人たちはいる。
レベルの高い麻雀打ちは皆、
一局が終われば
その局どういう牌がどこに行ったか
わかっているものだ。
だから、
もしこう動いていれば、
もしこれを先に切れば、
そういう気持ちの無い人はいない。
また、そこと対峙しているのが
麻雀プロという人たちなのである。
そして、それを解くことは
答えの無いパズルを解くことと同じだ。
しかし、人間は答えの無い問題を解こうとする
唯一の動物だ。
だから、皆麻雀から離れられない。